思い入れのある記事

冒険の幕開け

スーツケース一つでアメリカに降り立った2005年の夏。
あれから13年の月日が流れ、アメリカ生活に別れを告げる時が訪れました。
2018年7月11日、LA発の便で日本に完全帰国します。
2005年7月22日、渡米前日に記したブログ→「出発前夜

完全帰国を前にして

アメリカ生活を終えて日本に帰国していく友人達を見送る度に、いつか来るであろう自分が完全帰国する日を思い浮かべては、機内では何を思うのだろうと想いを馳せたものです。現在はLAの空港近くのホテルで息子達の寝息を聞きながらパソコンに向かっています。まだ機内ではありませんが、出会った恩師、仲間、友人達への感謝とこれから日本で始まる新しい生活と挑戦への期待と緊張に心が膨らんでいます。思い残す事といえば、アメリカ生活一年目を過ごし、奥さんと出会った地であるミネソタ州の小さな町Winonaを再訪できなかった事くらいです。自分の人生の1/3以上を占めたこの大きな章を、このような心持で幕を下ろせるのは、幸せな事だと思います。

アメリカでの生活が好きでした。そうでなければ、13年間も居座りません。僕をそれほど惹き付けたのは、一日一日がチャレンジの連続だったその緊張感です。トラブルを乗り越え、自分の力を伸ばし、それを証明し続けていかないと自分が望むレベルに辿り着けない、生き残っていけない、その緊張感です。不便極まりなかったビザも、その緊張感を大いに増してくれました。

決断に至るまで

ここ1,2年間、居心地が良くなっている自分に気が付いていました。職場では理解のある同僚とマネジメントに恵まれ複数年契約を結び、アスリートからの信頼も得ることができ、ビザも更新無制限のものとなり、、、それこそ絵に描いたような安定した生活の基盤ができていました。一家の大黒柱として家族を養う身としては申し分のない立場なのは理解していたし、プロとして自らに課題を課して知識と技術の向上を欠かしたことはありません。しかし、進路の相談を受けた若者からの「トラブルの連続ですが、頑張ります」というメールに羨ましさを感じた自分の背中は家族に誇れるものなのか、そもそも僕個人として納得できる生き方なのか、と自問するようになりました。また、自分が磨いた技術と知識を少数の限られたアスリートだけに使っているという事実に対して考える事が多くなりました。息子たちがこれから生きていく社会に対して、自分はもっと幅広く貢献できるのではないか、と。

そして、一度も社会人として生活した事のない母国で家族を養っていく事を想像した時に、かつて自分がアメリカに強く惹かれたあの緊張感を感じ、今が帰国の時だと直感しました。

このような流れを経て、プレーオフが始まる前の4月中旬に来期以降の契約破棄をチームに申請し、GMからハグと共に了承してもらいました。6月末に退職してから今日までの10日間は、貧乏な学生生活とNBAの過酷なスケジュールを支えてくれた家族と西海岸を旅行していました。

日本では

関西を拠点に個人事業を始めます。事業名は、「TMG Athletics」。想いの詰まった名前、ロゴの由来とストーリーは後日紹介します。

(追記↓)

ロゴに込められた想い僕が関わっていく方達は、このロゴを目にする事が多くなると思います。事業の一部、というよりも、僕の一部であるこのロゴに込められたストーリーを共有したく、このエントリーを書きました...

事業の柱は、

  • パフォーマンストレーニング(パーソナルトレーニング業)
  • セミナー、講演業
  • スポーツセーフティーの促進
  • 進学・就職における英文書類作成サポート
  • バスケットボール

の5つです。事業のコアであるパフォーマンストレーニング業は2018年10月開業を目標に、その他のサービスは9月から本格的に始動します。HPはまだまだ発展途上ですが、僕という人間・専門家、そして事業のイメージを知ってもらうきっかけになればと思い、プロフィールと挨拶の部分だけですが公開しました。

また、ここ数年は職務上の制限で更新が滞っていたブログも、情報発信、そして何より僕という人間と事業を知ってもらう第一手段として積極的に更新していきます。

目標

自分でビジネスを展開する今回の帰国に伴い、幾つかの目標があります。その中でも、ここで記しておく意味があると思うものは、10年越しでイメージしてきたトレーニング施設を建て、競技やトレーニングに留まらない、個人が目指すパフォーマンスを追及する環境を創る事です(競技に留まらないと書きましたが、僕の情熱の源であるバスケコートは外せません)。詳しくは、後日一つのエントリーを使ってまとめようと思います。

冒険

家族を養う身として、安定した収入を得られる職を自ら辞め、母国とはいえ長く離れていた上に職務経験の無い土地で事業を起こす事に躊躇を覚えた事は1度や2度ではありません。しかし、家族を信じているからこそ、今回の決断を下しました。下せました。最高最強のパートナーと最愛の息子たちと共に、身寄りのいない異国の地で築いた絆の強さとタフさには自信があります。今回の決断に対し、家族間での合言葉はAdventure「冒険」です。最高のパーティーで挑む冒険、楽しくないはずがありません。

まずは、住む地域を確定して、住む家を決める事から始まりです。

35歳、年柄もなくワクワクしています。

(後日追記↓)

なぜ滋賀県に?ほぼ必ず聞かれる質問です。 出身?―静岡県出身です。 昔住んでた?―日本で住んだ事があったのは静岡と埼玉(学生時代)のみです。...

追記(3年後の2021年)

このエントリーを投稿して3年。多くの縁に恵まれた滋賀を離れ、帰国後の日本生活第二章が長崎で始まっています。今回の決断も、アメリカから日本へと生活の場を移した時同様、家族を信じていたからこそ下す事ができました。新しい章の幕開けは、コロナという社会情勢を含めいつも通り沢山の凸凹がありましたが(現在進行形のものも)、相変わらずの最高最強のパートナーと最愛の息子たちと、日本生活第二章を大いに楽しんでいきます。

ありがとう、滋賀約3年前の2018年夏、僕と妻はそれぞれ13年間と8年間を過ごし、息子達は生まれ育ったアメリカから帰国しました。 帰国後の拠点として僕たちが選んだのは、実家がある静岡でも友人たちが予想した東京でもなく、それまで一度も足を踏み入れた事がなかった滋賀県でした。滋賀県を選んだ理由は帰国後のブログに書いています☛「なぜ滋賀県に?」 僕の家族にとっては日本の故郷となった滋賀を離れる事にしました。 3年弱の生活を支えてくれた場所を紹介します。...