思い入れのある記事

#8

NBAで働き始めた2013年の9月。チームにはロスターの選手に加え、トレーニングキャンプに呼ばれた数人の選手達がいた。

海外で実績を積んだ選手やNBAへの返り咲きを狙う選手達に混ざっていた、その年のドラフトで名前を呼ばれずキャンプに招待された、大学卒業したての一人のポイントガード。

きちんと目を見て挨拶をするし、小さなことへのお礼を忘れない、礼儀正しい好青年という第一印象。その練習態度やトレーニングに対する姿勢には、キャンプに呼ばれた選手内どころか、ロスターの選手達からも一線を画すものがあり、彼に一目置くようになるまで時間はかからなかった。

キャンプ参加者同士の3オン3では、他のキャンプ参加者からの「あいつ、またやってるよ」と言う声をよそに、要所要所でハドルを組んでチームメイトに声をかける。チームのミーティングにはノートを持って参加してメモをとる。練習後にはコーチを捕まえて1対1でフィルムを見る。自分で出来る身体のケアに手を抜かない。

より実績のあるライバル達が次々とカットされていく中、キャンプを生き残ったのは彼だった。

Work Ethic。アスリートとして、プロとしての姿勢。契約を勝ち取るまで頑張る選手は幾らでもいる。プレイオフが近づくにつれてギアを上げる選手もいる。シーズンを通して気持ちのアップダウンは99%の選手に見られる。彼のそれは、トレーニングキャンプからロスターの枠を勝ち取った後も、その数ヵ月後に残りのシーズンの契約が保障された後も、出場機会に恵まれない時期も、バックアップPGとしての地位を獲得した後も、2年後にNBAファイナルのスターティングPGを経験しても、3年後にNBAチャンピオンになっても、大げさではなく、一日として変わることはなかった。変わることがなかったのは、Work Ethicだけではないが、これは後に綴ろうと思う。

常に最善の準備をしておく事、そしてそれを続ける事は容易ではない。プレー機会が保障されていないアスリートにとっては、なおさら難しい。重なる遠征による不規則なスケジュールが加わると、困難を極める。しかしそこが、いつ訪れるか分からない1度きりのチャンスをモノにするかどうかの分かれ目になり、その先のキャリアを左右する。

彼は、一年目のシーズン途中でようやく訪れたチャンスをものにした。完全に劣勢なアウェーでの試合。打つ手が無くなり、第3PGの名前が呼ばれた。諦めか苦し紛れとも見えただろう。それまでベンチで誰よりもチームを応援していた彼は、コートに足を踏み入れると一人だけ他のスポーツをプレーしているかのような気迫とディフェンスをみせた。仕事中に初めて鳥肌が立った。

スタッツだけを見たら誰も信じないが、あの試合を観た人の誰もが第3PGがチームを勝利に導いたと言うであろうパフォーマンス。忘れることはないだろう。

ハードワークというのは、一朝一夕で出来るものではない。頑張る、とは違う。脳がかけるブレーキを外す鍛錬をどれだけ積んできたか。唇が変色するまで自らを追い込んだドラフトワークアウト。試合中のオフェンスで膝の靭帯を損傷するも、必死の形相でディフェンスに戻る。2015年のNBAファイナルで試合後に起こした全身痙攣。普通の人間は、あそこまで自分を追い込めない。

遠征先で食中毒にかかり緊急病院へ搬送された時。数時間後の夜中にホテルに戻り、這い蹲るように部屋に入ったあと、部屋の温度の調整と、カーテンと床の隙間をタオルで塞ぐように振り絞るような声で頼まれた。朝日が入り込んで睡眠が浅くならないようにと、いつも実践している睡眠の戦略を、意識が朦朧としていた時にも忘れていなかった。彼のプロとしての姿勢を物語るエピソードとして覚えている。

プロフェッショナルアスリートとして、まさに”live to work”を実践するロールモデルだが、彼を一層特別な存在にしたのは、その人間性。数あるエピソードから、幾つか。

遠征中の試合に向かう前、ホテルの一室でのトリートメントにホテルのマグに入れたコーヒーを持って現れ、飲み終わった後、それを自分のバックパックにしまって部屋に持って帰る。トリートメント後、何かバスに持っていく荷物はあるか?と聞く。

遠征先でのシュートアラウンド後に巻いたアイスバッグ。他の選手がバス内で取って床に置いてい(捨てていく)のを他所に、必ずホテルに持ち帰って自分で捨てる。

ホテルのマグなんて、トリートメントルームに置いていけばいい。荷物持っていこうかと言われた時は、耳を疑った。バスの床には他の選手が捨てたアイスバッグが散乱していて。2つくらい増えたって、大して変わらないし、そういうものだと認識されているので誰も気に留めない。でも彼は自分の手を濡らして冷たいアイスバッグを部屋に持ち帰る。

サンクスギビングやクリスマスのときは、スタッフに必ず何かを贈ってくれた。一人一人のスタッフを考え、家族がいるスタッフには家族向けのものを。

彼には自分の行動基準があって、プロフェッショナルアスリートとしてのwork ethic同様、それは自分の立場が変わっても一度として変わる事がなかった。繰り返しになるが、トレーニングキャンプからロスターの枠を勝ち取った後も、その数ヵ月後に残りのシーズンの契約が保障された後も、出場機会に恵まれない時期も、バックアップPGとしての地位を獲得した後も、2年後にNBAファイナルのスターティングPGを経験しても、3年後にNBAチャンピオンになっても。

彼とは波長が合い、彼も信頼を寄せてくれたので、殆どのトリートメント、リハビリ、メンテナンスを3年間任された。

2015年のカンファレンスセミファイナルで、キャリアベストともいえるパフォーマンスでチームのカンファレンスファイナル進出に貢献した直後のロッカールームで”UK, thank you for keep me going”は、本当に嬉しかった。涙が出そうになってトレーニングルームに逃げ込んだ。

優勝後のロッカールームで、彼から声をかけてきて一緒に撮った写真は、チャンピオンリングよりも価値と意味がある一枚。

2016年の夏、サマーリーグでラスベガスに滞在中に代表活動のために母国に戻っている筈の彼から電話があった。他チームとの契約が決まり、その身体検査の為に一日だけアメリカに戻ってきている、と。フリーエージェントの状況は知っていたし、彼がチームを離れる可能性が高いことは知っていたけれども、やはりショックだった。それでも、メディアやマネジメントを通して知るのではなく、彼が電話でそれを報告してくれた事は本当に嬉しかった。

以来、一人の友人として彼の事を応援している。アスレティックトレーナーとしての僕を成長させてくれたアスリートであり、それ以上に人として成長させてくれた人。